ヒナナからその話を聞いた時、ゼノスは生まれて初めて、妻に『驚き』の表情を見せた。彼らしくない表情に、ヒナナは少し困る。否定的な発言をされるとは思っていなかったが、いつも冷静であまり感情を出さないタイプの男が驚くくらいの出来事が起こっていると考えると、不安になった。
ゼノスは彼女が発した言葉を心の中で噛み締め、理解し、確認のために問うた。
「俺とお前の子が……ヒナナに宿った、そう、理解していいんだな?」
「うん」
彼の問い掛けに彼女は頷く。ゼノスは彼女の腹に触れ、優しく摩った。
「いつか、この日が来るとは思っていた。だが、いざその時を迎えると驚いてしまった……」
「ゼノスは、嬉しくない?」
戸惑ったまま、ヒナナは尋ねる。桃色の耳は力なく下がり、瞳は少し潤んでいた。
「これは、嬉しい、という気持ちに該当するのか分からないが、胸が熱くなり、お前と子を守りたいと感じた」
ゼノスの言葉を聞いて、ヒナナは心が軽くなる。それは喜びを感じ、未来へ希望を抱いているのだと伝えると、再度彼は驚いた。
「未来に、希望を……俺らしくないな……しかし、これもお前を愛おしく思い、共に生きることを選んだから起きた変化だ。お前の言葉を借りれば、『成長』しているのだろうな」
「ふふっ、そうだね。手を取ってくれてありがとう。これからは……わたしのパートナーであり、お腹の子のパパとして、よろしくね」
「ああ」
ゼノスは柔らかく微笑み、彼女の唇にそっと口付ける。優しい触れ合いに、ヒナナの胸の内は温かくなった。
その後、タタルとクルル、ヤ・シュトラの三人による子育て講座を二人で受け、仕事もセーブして請け負った。子が生まれ、ある程度育つまで休業しても良かったのだが、手助けを求めている人がいるのに放っておくことはあまりしたくないというヒナナの意見から短縮営業のような形となった。
それでも、お腹が大きくなり、動くことがなかなか難しいと感じられる状態になってからは、ヒナナは仕事を休み、ゼノスが依頼をこなしていった。
子を宿したことが判明してから八か月程度経った日の夜。ロッキングチェアに座り、膝掛けをして読書をしているヒナナの隣に、ゼノスが跪いた。体調を窺うように彼女を見つめ、手を撫でる。
「変わりはないか?」
「あ、うん。平気よ」
彼女はにこりと微笑む。その笑みはゼノスを安堵させた。
「ねぇ、お腹、撫でてくれる?」
「ああ」
ヒナナの要望に応え、腹部を撫でる。内部で、子が少し動いた。
「っ……!」
「パパが撫でてくれて、この子も嬉しいんだと思うわ」
「分かるのか?」
「なんとなくだけど……」
「そうか、母はすごいな」
「今は二人で一人の状態だから……生まれて別々の存在になったら、きっと分からないことも増えていくと思う。その時は、一緒に乗り越えていきましょう」
「そうだな……俺の方が、子どもについて分からぬことが多いが……」
ゼノスの表情が暗くなる。ヒナナと暮らすことで『情緒』が芽生え、育った彼にとって、子というのは『未知なる存在』だった。だからこそ、暁の面々による講習は受けたが、共に生き、育てていく自信はヒナナよりも少なかった。それを察していたヒナナは、お腹に触れる彼の手に自分の手を重ねる。穏やかな視線を向け、大丈夫だと言葉を掛けた。
「あなたにとって、子どもは『未知』に溢れた存在かもしれない。わたしも同じよ。冒険者として依頼をこなす中で、赤ちゃんと触れ合うこともあったけど、その経験と自分の子を育てるということは別だもの」
まるで、彼女の声は母親が語りかけるような安心感を帯びた声だった。
「それに、子どもが出来たって話した時に、ゼノスは言ってくれた。『わたしと子どもを守りたいって感じた』って。その思いがあれば、大丈夫。二人で協力して、子育て頑張りましょう」
「ヒナナ……」
彼女の言葉に、ゼノスの心の重荷は少し軽くなった。自分よりも人との関わりを理解しているヒナナも近しい気持ちであり、あの時感じた思いを糧にすれば良いと分かったことも安心する材料となった。
「ああ、俺は『良い父親』というのは分からないが、子とお前にとって良き存在であれるよう、努力しようと思う」
「うん」
にっこりと微笑んで、ヒナナはゼノスの頬に口付けた。彼女の笑みに応えるように、彼も小さく笑う。初めてのことがこれからたくさん起こるけれども、二人一緒であれば必ず乗り越えていけると、ヒナナは思った。
二カ月後。一人の男の子が生まれた。父に似た蒼い瞳で、母のように猫に似た耳と尻尾といったミコッテ族の特徴を有している、愛らしい顔の男児だった。生まれたばかりの小さな命に、ゼノスは恐る恐る手を伸ばす。ヒナナから彼を受け取り、手に乗せた時、じんわりと優しい温もりを感じた。
自分とヒナナの血を受け継いだ未知の存在が、己の手の内にいる……このまま手に乗せておくだけでいいのか……彼がとても珍しく戸惑っていると、出産の手伝いをしたヤ・シュトラが苦笑した。
「あなたのような人でも、そういう状態になることがあるのね。腕で抱きかかえるようにして、頭や顔を撫でてあげて」
「あ、ああ……」
彼女の言葉に頷き、言われた通りにする。小さな顔を指で撫でると、赤ん坊の表情が和らいだ。
「喜んでいるのか?」
「ええ、そうよ。スキンシップは人間にとって大切なことだから……なるべくたくさんしてあげてね」
自分よりも子どもについて知識を持つヤ・シュトラの助言にゼノスは同意する。初めてのことに少し動揺しつつも、関わろうとする彼を見て、ヒナナは嬉しく思った。
その翌日。石の家の未明の間で、ヒナナとゼノスは子どもの名前について話をしていた。
「この子の名前なんだけど……アッシュ、という名前がいいなと思うの」
「……何故だ?」
彼女の言葉にゼノスは首を傾げる。アッシュという言葉は、確か『灰』や『燃えかす』を意味するはずだ。どうしてネガティブな意味合いを持つ言葉を使うのだろうと疑問に思った。
「アッシュには、良くない意味ももちろんあるんだけれど、トネリコ属の樹木を意味する言葉でもある。同じトネリコ属の樹木で、アオダモという樹木があってね、花言葉が『幸福な日々』なの。この子の毎日が幸福であるようにって思って」
「なるほど……しかしどうして、直接『アオダモ』という言葉を使わず、回りくどい表現をしているのだ?」
「本当はそのまま使いたかったんだけど……それだと、わたしやゼノスのせいでこれまで犠牲になった人達に申し訳ないと感じて……」
「ヒナナ……」
罪を背負うのは、自分だけで充分だと思っていた。しかし彼女は、『ゼノス・ガルヴァス』という男が犯した罪を、自分が『英雄』という免罪符の下に奪ってしまった命に対する罪とともに抱え、茨の道を進むと決めていた。ヒナナの思いを知っているゼノスは、彼女を抱き締めた。
「お前が意識する必要はないと考えているが、それはお前の正義が許さぬのだろうな……」
「うん……」
「そうだとしても、罪の意識を抱え過ぎるな。お前は俺ではないし、子も関係ない。お前とこの子には、幸せであって欲しい」
「ゼノス……」
ヒナナは彼を見上げる。愛する妻に自分の咎を負わせてしまった悲しみと、彼女に対する優しさが混じった表情をしていた。以前のゼノスには、決して見られぬ……存在していなかった感情が、彼をそうさせていた。そしてその感情は、ヒナナという愛する人と過ごすことで生まれたものだった。
「ありがとう……わたしは、あなたにも幸せであって欲しいわ。家族三人、みんなで幸せでありましょう」
慈愛に満ちた笑みをヒナナは浮かべる。すべてを包み込むような笑みに、ゼノスは頷いた。彼女ならば、言葉に発したことを必ず現実で成し遂げるだろうと、今までの記憶から察するに至った。
ヒナナ・オリヴィアとは、そういう存在なのだ。小さな体に秘めた力は強く、だからこそ、自分も焦がれ、天の果てで決闘をしたのだから。
「ああ……アッシュとともに、三人で、な」
「うん!」
すると、名付けられたことに気が付いたのか、アッシュは声を発する。あー、うー!と自分のことを主張するように両親の耳に届いた声は、活発さが見受けられた。
「うふふ。一緒に素敵な景色をたくさん見ましょう、アッシュ。そのために、ママもパパも全力を尽くすわ」
再び答えるように発声したアッシュの頭を撫でて、ヒナナは気持ちを固める。その手に自分のそれを重ねて、ゼノスは彼女の額に口付けた。
「夫として、父として、俺はお前達を守る。迷った時は、導いてくれ、ヒナナ」
「ええ、一緒に歩いていきましょう、ゼノス」