Vi et animo

寂しい時は傍に居て

 正体を隠し、わたしとともに冒険者として生きることを選んでくれたゼノスと過ごして一月ほど経った頃。西ラノシアの幻影諸島へアンデット系の魔物を討伐しにいった。以前、セイレーン討滅の為にシリウス大灯台へ潜入して以来の訪問だったが、薄気味悪さは変わっていない。あまり、幽霊とかそういう『怖いもの』が得意でないわたしは近付きたくなかったのだけれど、シリウス大灯台を修繕している作業員さん達から『子どもの泣く声がして、恐ろしくて集中出来ない』という相談を受け、原因をなくすために現地へ向かった。結局、レブナント達がヒトを追い出そうと怖がらせていただけだった。でも、討伐した時に彼らは謎の霧を発し、わたしを庇うためにゼノスがそれを浴びてしまった。特に痛みも苦しさもないと言っていたのだけれど、ラベンダーベッドにあるわたし達の家に帰ってきたあと、頭痛がすると言い始めた。
「レブナントが発した霧がなんかのデバフを持っていたのかもしれない……武器の片付けとかやっておくから、先に休んでて」
「ああ…………ヒナナ」
「なぁに?」
 何だろうと思って視線を上げれば、間近まで端正な顔が近付いていた。驚く間もなく、ゼノスは頬に口付ける。
「お前も早めに休め。長い距離を移動したのだからな」
 自分だって同じ距離を移動し、なおかつ頭痛を抱えているのに、こちらを気遣う様子を見せた。ただ、戦うことを求めていた昔の彼とは違う。たった一人になって、わたしと宇宙の果てで戦って、共に生きるようになって、『思いやる事』を覚えてくれた。それがわたしは嬉しいのだけれど、ゼノスが生きていることは共に戦ってくれた暁のみんなしか知らないし、ラハやアリゼーは共に居ることを心配しているので、喜びを共有出来る人は数少ない。
 悲しいなと思いつつ、気遣ってくれたことに感謝した。
「ありがとう、片付けはすぐに終わるから」
 答えると、彼はわたしの頭を撫でて、二階の寝室へ移動する。大きな背中を見送って、使った武器や道具鞄の片付けを行なった。

 翌日。窓から差し込む陽光によって目が覚める。隣を見れば、穏やかな呼吸を繰り返して眠っているゼノスがいる。まだ起きそうにない、と判断し、朝食を作る為にベッドから離れた。
 冷たい水で顔を洗って、パジャマの上から適当なカーディガンを羽織る。今日はフレンチトーストにしようかな、などとふんわりメニューを考えて作っていると、階段を下りてくる足音がした。ゼノスが起きてきたと察し、振り返る。おはよう、と声を発しようとしたわたしが見たのは、寂しげな表情をした彼だった。
「ゼノス……?」
「……ひとりに、するな……」
「え……?」
「お前が、傍にいないと……」
 声の雰囲気も、いつもの彼じゃなかった。弱々しく、何かに怯えているような声。
 只事ではないと思い、作業を中断してゼノスに近付く。手が届く範囲まで行くと、彼はぎゅっとわたしを抱き締めた。
「っ……!」
「少し、このままでいさせろ」
「うん……」
 今まで見たことがない表情に驚いて、彼の要望を受け入れることしか出来なかった。背に腕を回して、優しく撫でる。こうしなきゃいけない気がして、ゼノスがいいと言うまで続けた。
 暫くして、気持ちが落ち着いて来たのか、彼は平気だと呟く。今までなかったことに不安が競り上がってきた。
「悪いな……お前に、そのような顔をさせたくはなかったのだが」
「どうしたの……? 昨日受けた攻撃のせい?」
 わたしを庇って正体不明の霧を浴び、大変なことが起きているのではないか、と考えてしまう。ゼノスは少し黙ってから頷いて、あれが原因だと推測されるがお前のせいはではない、と答えた。
「お前を守りたいと思ったからああしたまで……責任を感じなくとも良い」
「……」
「今の俺は、知能や体格は元のままだが、精神が子どもに戻ってしまったようでな。大切なお前が傍に居ないと、無性に寂しくなる」
「ええ……!?」
 しんみりとしていたわたしだったが、彼から聞いた特殊なデバフにただただ驚く。人間の精神年齢だけを下げる、なんてコアな部分にターゲットを絞った状態異常効果があるなんて初耳だったからだ。けれども目の前にいるゼノスは先程まで、わたしがいないことを寂しがり、不安そうにしていた。これは事実だ。なんとか回復させなければと思ったが、特殊過ぎてどうすればいいのか分からなかった。毒なら解毒剤、麻痺なら元気薬と対応する薬はあれど、精神年齢を元に戻す薬なんて聞いたことがない。ヤ・シュトラに連絡して相談しようかと考えたが、リンクパールが置いてある棚に行こうとしたわたしをゼノスは止めた。
「仲間の知恵を借りずとも、数日すれば治るだろう」
「ん……もしも治らなかったら。ヤ・シュトラに相談させてね?」
 暁の面々の力を借りたがらない彼の意見を尊重し、『もしも』の時は実行することを約束してもらう。彼は頷き、食事作りの途中であっただろう、とわたしの本来の目的を思い出させてくれた。
「視界にお前が映っていれば、問題ない」
「分かったわ。何かあったら、すぐに言ってね」
 彼本人が問題ないと言っていても、それは彼なりに気遣っている可能性がある。初めての事態に不安が大きかったわたしは、異変を感じたらすぐに伝えるように念を押した。
 無事に朝食を終え、二人で大きめのソファに腰掛ける。初めはただ隣同士で座り、互いに読書していたが、途中でゼノスが本を机に置き、抱き寄せてきた。
「やっぱり、寂しい?」
 今の彼は『幼いゼノス』なのだと思い、普段よりももっと優しさを込めて声を掛ける。彼は首を横に振った。
「寂しいというより……お前に甘えたい。良いか?」
「うん」
 わたしも本に栞を挟んで机に置き、大きな体を抱き締める。ゼノスは頬を胸に乗せるようにして、こちらに寄りかかった。
「んっ……」
 恋人である彼が胸に触れるのは、勿論セックスしている時が主なので、布越しに顔が触れていると思うと不思議な気持ちになる。ただ甘えさせているだけなのに、心と体の奥が熱を持ってしまう。彼の事はずっと愛しているし、体を重ねることも嫌いじゃないけど、そっちに意識を持っていってしまうのはさすがにはしたないと感じ、邪な思いを捨てるように軽く頭を左右に動かした。
「どうした?」
 当然、それを不審に思ったゼノスが問いかける。わたしはドキッとし、あからさまに動揺しながら何でもないと答えた。
「何でもないわけなかろう。声が上擦っているぞ」
 ゼノスは嫌に勘が鋭い。いや、きっと今のわたしの不審さは、鈍い人でも気付くと思うけど。
 彼はゆっくりと顔を上げて、訝しげに視線を向けた。美しい水色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。皇太子でなくても、その瞳には他者を抑制させる強い力があり、恋人であるわたしにとっては、ときめきを与える魅力があった。自然と、頬が朱に染まる。ゼノスは小さく笑い、そういうことか、と言った。
「俺の肌がここに触れていたから、欲情しかけていたのだろう?」
 言葉を並べつつ、つん、と胸を突く。恥ずかしくて、止まらないドキドキを抑えながら、おずおずと頷く。彼は笑みを深くして、唇を耳元に寄せた。
「子どもの俺に発情するなど……いやらしい女だな」
「んっ……」
 どうやらわたしは被虐的な思考が強いようで、好きな人――ゼノスに言葉で何か言われるだけで体が熱を持ってしまう。なりを潜めていたその特性を引き出したのは彼なのだけれど。ゼノスの声が刺激となって、胸の高鳴りが強くなる。今は彼だっていつもと違う状態なのだからダメだと自分に言い聞かせて、小さな声で呟いた。
「だめっ……いやぁっ……」
 欲望に抵抗するわたしを見て、彼は苦笑する。からかってすまなかったと謝り、自分もそういう気持ちではないと言った。
「精神的な年齢が下がったせいか、今は欲求がない……だがまた闇が深まれば、夜の空気に惑わされ、お前を求めるやも知れぬ。その時は……分かっているな?」
「うん……」
 ゼノスは優しく頭を撫でる。これではどちらが『子ども』になってしまったのか分からない。精神の年齢は下がっているものの、知識は大人のままの優しい彼に宥められて、わたしは頷いた。
 先程は中途半端に甘えさせてしまったので、やり直したいと申し出ると、彼は膝枕をして欲しいと言う。気持ちを切り替えたわたしは同意し、ゼノスはソファに仰向けになった。普段、見下ろしてくることが多い彼の瞳が、こちらを見上げる。とても綺麗で、宝石のようだ。そっと、そぉっと、髪を撫でていると、彼はぽつりと呟いた。
「……俺にも母がいれば、こういう経験をしたのだろうか」
「えっ……」
「話していなかったか? 俺の母親は物心つく前に亡くなった。育ててくれたのは乳母と使用人だ。父から……愛情を注がれたことなどなかった」
 自分を嘲るような目で彼は語る。そう言えば、ガレマール帝国と戦っていた頃も、ヴァリス帝の奥さん……ゼノスの母親について何も聞かないなと思っていたけれど、そういうことだったんだと理解した。父親がいて、母親がいて、養子の兄がいるわたしとは全く違う。親からもらうはずの愛情をゼノスは知らないのだと分かり、胸が痛くなった。
 無意識に、頬を涙が伝う。それに気付いたゼノスは、手を伸ばして指で拭ってくれた。
「お前が泣く必要はない。今こうして、愛おしい相手に愛情をもらっているのだからな」
「じゃあ、ゼノスが子どもの時に貰えなかった分、わたしがたくさん愛情をあげる。恋愛的なものだけじゃなく、慈愛というか、家族としての愛情もね」
 わたしは彼の手を握り、真っ直ぐに見つめて伝えた。彼は柔らかく微笑む。
「家族、か……ならば、噂に聞く『エターナルバンド』というものを行なわなくてはな。俺とお前が家族になるというのは、そういうことだろう?」
「ふえっ……!」
 好きな人から突然、結婚しようと言われたわたしは頬が茹蛸になるくらい熱を持った。心臓がドキドキして、口がぱくぱくと動く。先程以上に動揺している様子を目にし、ゼノスはクスクスと声に出して笑った。
「そこまで焦ることもなかろう。愛を育んだ者同士、いずれ結婚というものをするのがこの世界の道理だと思うが」
「そう、だけど……! 急に言われたらびっくりするわ」
「お前は分かっていても過剰に反応しそうだがな」
 からかうように言って、再び笑う。美しい顔に浮かぶ無邪気な笑みは、愛らしかった。
「ヒナナ。お前は、俺と家族になることを望むか?」
「うん……えっと、ゼノスのお嫁さんになりたい、し……出来たら子どもも欲しい」
 恥ずかしさに耐えつつ、答えを伝える。ゼノスは一瞬驚いたような顔をして、自信に満ちた笑みを見せた。
「お前の冒険者としての目標が達成されたら、家族となろう。子も……ここに宿そう」
 甘く優しい声で話しながら、わたしのお腹をそっと撫でる。ただ触れられただけなのに、それが意味することを考えてしまって、胸が高鳴った。
「い、いずれ、ね……!」
 デバフで心が子どもに戻っていても、やっぱりゼノスには敵わない。それでも、この人に愛されていて良かったと思いながら、再び髪を梳いた。

 ゼノスに掛かってしまったデバフが消えたのは翌日で、目覚めるといつもの彼が隣にいた。ただわたしは、昨晩のあれそれを思い出してしまい、大きな羞恥を振り払うのが大変だったのだけれど。