Vi et animo

届きますように

 国を救った英雄、第一世界を救った英雄と人々に謳われる中、彼だけだった。わたしを、『わたし』として見てくれる人は。彼―――ゼノスだけが、『冒険者』として、『一人の女』としてわたしを見つめ、扱ってくれた。だから彼の望みを出来るだけ叶えてあげたいと思った。わたしの中の、何にも囚われず、恋人として共に生きたいという願いも含めながら。けれども世界はそんなわたしを嘲笑うようにとんでもない事態を迎え、白銀目立つ彼の祖国に降り立った時、世界と、共に戦う仲間を優先しようと決めた。自分の中の恋心を塗り潰して。
 でも、彼はとても真っ直ぐだった。ファダニエルに裏切られても、一人になっても、ただ、わたしと戦うことを望んでいる。まるで透き通ったガラスのように純粋で、幼い少年の夢のようで。わたしが選ぶべきは彼の願いなのかと思った時、アリゼーはゼノスを一喝した。
 自分から何を与えられるか……その言葉を聞いた時、わたしもゼノスも互いに一方的だったのだと感じた。再戦したいというゼノスの気持ち、恋人として共に生きたいというわたしの気持ち。相容れない気持ちをただぶつけていただけなのだと。それでは、互いに振り向くことなど出来ないと。わたしがすべきことは、共に生きるということの形をゼノスが受け入れやすいものに変え、彼の願いを叶えられるように世界を救うことだと気付いた。アリゼーは少し長く生きているわたしなんかよりもずっと賢く、きちんと人を見ていると感心し、感謝した。

 キャンプ・ブロークングラスでウリエンジェやレポリット達と再会した後、ちょっと気になることがあるからと誤魔化し、オールド・シャーレアンに戻る仲間達と別行動を取った。もしかしたら、まだいるかもしれない。最後に、この気持ちを伝えなくちゃ……あの人の温もりを覚えていなくちゃ……ただそう思って、ゼノスと別れた辺りを見回した。
 白い雪に覆われた土地が続く。木々はあれど、ほとんど白だ。この国に渦巻いていた争いと憎しみとは真逆の。皮肉のようだと思っていると、背後に探していた気配を感じた。
「仲間とともに去ったと思ったが、戻ってきたのか?」
「ゼノス……」
 振り返れば、美しい金糸を陽の光に輝かせ、少し不思議そうにわたしを見つめるゼノスがいた。
「あなたに、伝えたいことがあって……それに……」
「……」
「こうしてゆっくり会えるのはきっと最後だから、ゼノスのこと、抱き締めさせて……」
 それは、英雄でもなく、冒険者でもなく、ヒナナ・オリヴィアという一人の女の願いだ。恋を知らぬ女が恋をしてしまった相手を忘れないために、最後にぶつける我儘だ。
 ゼノスはフッと笑って、ついてこいと背を向けて歩き出した。わたしはそれに従う。言葉を交わさず雪道を歩いた。互いの雪を踏む音と、さらさらと優しく降る細かい新雪の音だけが耳に届く。まるで、この世界にはわたしとゼノスだけしかいないようだった。
 そんな、ありもしないことを想像していると、とある一軒の小屋の前で彼は足を止める。わたしとの戦いに向け、強さを磨いていた時に見つけたらしい。人は誰もおらず、数日使える分の青燐水と暖房器具、毛布があった。
 ゼノスは小屋の中に入り、慣れた手付きで暖房器具に青燐水を補給してスイッチを入れる。皇族と言えど、生まれた時からこの国に住んでいるからこそ理解しているのだなと思った。彼は毛布を手に取って渡してくれる。ガレマルドの寒さに慣れていないだろう、と言われ、恥ずかしながらも頷いた。
「ありがとう、ゼノス」
 毛布を受け取って体を包む。ゼノスは暖房器具の近くに腰掛け、隣に座るよう促した。わたしは彼のすぐ傍に腰を下ろす。寄り掛かると、抱き寄せられた。
「俺の体温を覚えておきたいのだろう……? 健気な女だな」
「っ……分かってたの……?」
「抱き締めさせて欲しいということは、そういうことだろう? 貴様のことは1から10まで理解しているつもりだったが、再び仕合うにはまだ足りぬようだな」
 まるで自嘲するように彼は話す。アリゼーに言われたことを考えているんだろう。わたしに対して、何を与えることが出来るかを……。
「それはわたしも同じ……ただ自分の理想をあなたに押し付けていて、相手の気持ちを考えられていなかった……ゼノスもわたしのことが好きだから、きっと受け入れてくれるって勘違いしてた」
「……俺と貴様は同じではなかったわけだ」
「そう、同じなんかじゃない。だから、わたしの願いをあなたが受け入れやすいものに形を変えなければいけないと考えたの」
 言って、ゼノスに視線を向ける。彼はわたしの言葉を真剣に聞こうとしているようで、濁りのない蒼い瞳が見つめていた。
「世界の現状をなんとかして、あなたと真っ直ぐ向き合えるようにする。そして再び戦い、あなたの想いを受け止めて共に生きる……それが、わたしの出した答え」
「触れられなくなってもいいのか?」
「本当は抱き締められなくなるのも、話せなくなるのも嫌よ……けれど、それじゃあなたの願いは叶わない。文字通り、命を懸けて仕合うのだから」
 ゼノスの問いに素直な気持ちを答える。彼は驚いた様子を見せ、受け入れたように頷いた。
「貴様は答えを見つけたようだな。俺も俺の答えを見つけ、それを突き付ける」
「うん……全力で答えるわ。あなたの想いに」
 それが自分達が迎える恋の結末。わたしは幸せではないかもしれない……けれども、これで彼が満足ならば、それでいい。幸せならそれで……本当に幸せなのかは、彼しか分からないけれども。
「ヒナナ……」
「な……んっ……!」
 わたしを呼んだゼノスは、前触れもなく体を引き寄せて口付ける。舌を口内に侵入させ、優しく上顎を舐めてから舌同士を絡めた。甘い感覚を記憶させるような行為で、普段の彼のキスとは違った。これは本当に最後の口付けなのだと、意識させられる。
「ゼノ、ス……」
 酸素を求めて口を離せば、ゼノスはどこか切なげに目を細めていた。わたしの心がどくりと鳴る。
「まだ、終わりではないぞ」
「ん……あ……」
 駄目とも良いとも答える前に、彼は再び唇を封じる。深く深く、互いの唾液が溢れるくらいに口付けられ、体は蕩けていった。
「っん……ゼノス……」
「ヒナナ……抱き締められ、口付けられるだけで満足か?」
 早く、みんなの下へ行かなければならない、ということは分かっていた。けれども、これが彼との最後の逢瀬なのだと思うと、体は疼き、愛する人を求めてしまった。
「……嫌、欲しい、もっと……」
 こんな愚かなわたしは英雄なんて呼ばれ、謳われる存在ではないのだと思う。ただの、恋に溺れる冒険者だ。それでも望まれている限り、わたしはわたしに与えられた課題を解いていかなければならない。自分の信じる正義を剣に込めて……愛する人の願いの為に。

 ―――ねぇ、二人だけの場所で仕合いをして、全力をぶつけ合って、あなたは幸せだった? わたしはこれで正しかった? あなたの想いを胸に刻んで、ちゃんと歩いて行けるかな……不安だけど、もう触れることは出来ないから、振り向かずに歩いて行くわ。もしも……もしもわたしの想いが届くとしたら、その時は、一緒に生きて……大好きな人。