Vi et animo

愛の証

 鏡を見て、首元に赤い花が咲いていることに気付く。昨夜の行為を思い出し、愛おしい恋人の噛み跡だと認識した。
 ――この程度なら襟で隠せるであろう。
 ディオンは軽く考えて、噛み跡を撫でる。大好きな人が、テランスが自分への愛の証として残してくれたものだと思うと、嬉しくなった。胸の奥が熱くなる。
 テランスは、普段こそディオンを傷付けまいと彼のナイトとして過剰とも思える守りを見せているが、夜のまぐわいとなると本能が先立ってしまうのか、ディオンは自分のものだと主張するように跡を残すことが多かった。跡を残した本人は、申し訳ないことをしたと謝罪するが、付けられた方は愛されていると実感して喜ばしい行動だと思っている。
 その日も、嬉しそうに微笑みながら噛み跡を見つめるディオンに対し、身支度を整えたテランスは謝った。
「ああっ、ごめん……また僕、君の体に……」
 悲しげな顔をして言葉を紡ぐ彼に、ディオンは首を横に振った。
「構わぬ。寧ろ、私は嬉しく思うぞ。テランスからの愛を感じられ、幸せだと」
「ディオン……」
 テランスは笑顔を取り戻し、ありがとう、と礼を言った。
「君は本当に女神みたいだね。心も体も美しい……」
 相手の頬を撫ぜ、唇を重ねる。ディオンはテランスを抱き締めて、挿入された彼の舌と自分のそれを絡めた。
「んっ……はっ……」
 自ら絡めてきたことに驚きつつも、テランスは応えるように翻弄し、ディオンの口からは甘い声が零れていった。唇を離せば、彼は蕩けた瞳でテランスを見つめている。
「朝から積極的だね。今日は一緒に、ノースリーチまで物資を受け取りに行くのに」
「……お前が付けた跡を見ていたら、欲してしまった……もう、一度だけ……」
 欲しい、愛されたいという感情を視線に込めて、ディオンは訴える。キスだけなら問題ないと判断し、テランスは頷いた。
「うん、良いよ……そんな風にお強請りされたら、断れないから……」
 その後、ディオンとテランスはノース・リーチへ出立した。マダムから隠れ家で使う衣服の布やラウンジで出す酒を受け取るためだ。行ってくる、と隠れ家を出て行った二人を見送ったテトとクロは、不思議そうな顔をしてジョシュアに尋ねた。
「ねぇ、ジョシュアおにいちゃん」
「なんだい?」
「王子様、お首のところ虫に刺されちゃったの?」
「赤くなってた」
 幼い二人の言葉を聞いて、彼はある答えに至り、苦笑した。
「うん……そうだね、悪い虫が飛んでいたんだと思う。戻ったら、薬を塗るよう伝えておくよ」
 ジョシュアの意見にテトとクロは微笑み、よろしくね、と言ってハルポクラテスの書庫に走っていった。残されたフェニックスのドミナントは、息を吐いてつぶやく。
「小さい子もいるから、加減するように伝えた方がいいかな……」
 ノースリーチに到着したのは、昼過ぎだった。復興真っ只中の街を歩き、マダムがいる夜のとばりへ移動する。目深にローブを羽織っているため、町の人は誰一人、ディオンとテランスだと気付かない。気付かれては、色々と厄介なのでありがたいことだ。建物の前ではマダムと男娼の青年が世間話をしていた。声を掛けると、笑顔を見せてくれる。
「ようこそ、一旦中に入りな。中なら顔を見せても大丈夫だよ」
「気遣い感謝する」
 マダムの厚意に甘え、ディオン達は建物内に入る。受付に設けられた木の椅子に腰掛け、ローブの被り物の部分を脱いだ。
「……こちらの状況はどうだ?」
 一息吐いて、現状確認を始めたディオンの真面目さに小さく笑って、マダムは答える。
「少しづつだけど復興は進んでるよ。ザンブレクの兵士達、商人、国の中枢にいた者、そして私達夜のとばり……みんなで力を合わせて、あんた達とも協力してね」
「入口にあった市場も前より活気づいてきましたよね、人々の表情も多少は明るくなっているようで、安心しました」
 テランスの言葉にマダムと青年は頷く。他の町との交易が徐々に復活し、商人達もやる気を取り戻しているらしい。
「物のやり取りが活性化すれば、人の往来も多くなる。そうすれば、私達の店に来る人も増えるからね、これからだよ」
 夜のとばりを仕切るマダムは、拳でとんとんと胸を叩いて自信を見せた。彼女のような皆を引っ張って、未来へ進んでいく力を持っている者がいるこの町は、必ず良い形で復興するだろうとディオン達は思った。
「さて、営業の準備があるからね、テランスさん、物資の確認の為に倉庫まで来てくれるかい?」
 本題に移った彼女に、テランスは頷く。椅子から立ち上がり、建物の奥にある倉庫へ向かう二人をディオンは見送った。
 すると、残された青年がディオンの方をじっと見つめる。何か顔に付いているのだろうかと思って尋ねると、青年は言いにくそうに口を開いた。
「首……跡がある」
 青年の言葉を聞いて、ディオンは目を見開く。誰もいないのに左右を確認してから、まことか?と聞き返した。
「うん……気付いてなかった? 角度によってはよく見えるから、隠れ家の人も気付いてたかも……」
「なん、だと……」
 ディオンは今日今まで会った人物を思い出す。クライヴ、ジョシュア、テトとクロ。ロズフィールド兄弟にはテランスとの関係性がバレているし、良い大人なので見て見ぬふりをするだろう。しかし、テトとクロは子どもだ。自分とテランスが昔から仲が良い親友だと認知している程度で、彼らにとって自分達は同年代の遊び友達と同じだ。恋愛のあれそれなんて知らないしまだ早い。帰ったあとに問われたらどうしようとヒヤヒヤしていると、青年は心配そうに彼を見つめた。
「大丈夫? 気付かれたくない人がいた?」
「あ……まあ……問題ない、テランスと言い訳は考える」
 他者にあまり迷惑を掛けたくないと思っているディオンは青年を宥める。彼は安堵し、あなたはテランスさんにとても愛されてるんだね、と言った。
「跡を残すってことは、自分を刻むってこと。恋人を心から思っているから起こす行動だと思うんだ。幸せそうなあなた達を見ていると、ぼくも嬉しくなるよ」
 そう語る青年の表情はどこか寂しさを帯びている気がした。他者の領域に無闇に踏み込むのは良くない、と感じつつも、ディオンは尋ねた。
「お前の想い人は……お前を大切にしてくれなかったのか?」
「……あの人は、ぼくを大事に想ってくれていたよ。情勢が落ち着いたら、一緒に暮らそうって……でも、クリスタル自治領が空飛ぶ大陸になってしまった時、巻き込まれて……」
 青年はそこで口篭る。涙を堪えているように見えた。
 彼の話を聞き、ディオンはすべてを察する。青年と恋人は愛し合っていた。男娼と客としてではなく、心から。けれども、クリスタル自治領がオリジンとなったことで恋人は帰らぬ人となり……青年は世界に残されてしまったのだ。
 オリジンが出来たことはディオンのせいではない。だが、関係がないとは言えない。バハムートを宿していた彼は、青年の頭を撫でた。
「大切な存在を失うことほど、辛いことは無い。無理して、皆と合わせて未来に進もうとせずとも良い。気持ちが落ち着いてから追いつけば良いのだ。今は、その者との思い出に決着を付け、未来に迎えるように心を調えるべきだと余は思う。恋人も、お前が生き続けることを望んでいると思うからな」
「ディオンさん……」
 もしもテランスを失っていたら、今言ったことを実行することは出来ないだろう。父をこの手で亡くした時でさえ、あの始末だったのだから。けれども、生き残った青年にはしっかりと歩んで欲しいし、それを支えるのが自分の役目だとディオンは思った。だから、言葉を送った。
「ありがとう……ゆっくり、前に進むよ」
 青年は微笑む。穏やかな笑みに、ディオンは微笑み返した。
 すると、荷物を抱えたテランスとマダムが戻ってくる。和やかな雰囲気に、マダムは首を傾げた。
「あんたら、そんな仲良かったっけ?」
「少々、気が合う部分が見つかっただけだ」
「ディオンは人たらしだからね」
「テランス、良くない言い方をするな」
 冗談を交えて二人は声を掛け合う。仲睦まじい様子に、彼らにたくさんの幸福が訪れますようにと青年は願った。