Vi et animo

世界が終わるその時まで

 『この騒乱の中心で、我が同胞、ゼノス殿下がお待ちです』『せいぜい道を切り拓いて、あの情熱に応えてあげてくださいね?』。あの時、黒い炎が燃ゆる中、ファダニエルはそう言った。地に倒れ伏す、俺達の英雄に向かって。彼女の表情は距離があるのと炎のせいで正確には確認出来なかったが、ファダニエルの向こうにいる誰かを見ているような、切なさに溢れていた気がする。勘違いかもしれない。だって彼女は、俺に愛を誓い、共に生きようと言ってくれた人なんだから。けれどもあの表情は、遥か遠くにいる誰かも想っていると感じさせてしまうような、危ういものだった。
 好きな人を疑うなんてことはしたくない。したくないのが本心だが、黒い炎の中で見た彼女の表情を思い出す度に、胸が締め付けられた。だから、二人きりになれる機会を狙い、思い切って彼女に話しかけた。
「あの、ヒナナ」
「どうしたの? ラハ」
 普段と変わらぬ愛らしい笑顔で振り向く。つぶらな瞳に映る純粋な輝きは、恋人に疑念を抱いている俺の心に細かい痛みを与える。針で刺されたようなそれを耐え、本題を切り出した。
「……あんた、俺以外に好きな奴がいたりしないか?」
「えっ……?」
 瞬間、彼女の瞳は揺れた。俺もどきりとする。視線を反らし、表情を見せないようにしているヒナナを見て、俺が気付いてしまった違和感は事実なのだと思った。
「ヒナナ、もしかしてゼノスのこと……」
「ごめんなさい、あなたがいるのに、あなたに愛を誓ったのに、わたし……」
 俯いたまま言葉を紡ぐその声は震えていた。悲しみの色を濃く帯びた彼女の声は、深く心を締め付ける。聞かなければ良かったという罪悪感が胸に溢れた。大好きな彼女が他の男の事も想っていた、という事実から来る憎しみよりも、自分の言葉で好きな人を傷付けてしまったという罪の意識の方が上回る。それほどまでに俺は、ヒナナ・オリヴィアという人を尊敬し、恋人としても愛しているんだ。
「あんたは優しすぎるから、例え剣を向ける相手でも愛してしまう……そうだろう?」
「ラハ……」
 涙を堪えるような声を発するヒナナを、俺は抱きしめる。彼女の小さな体が震えているのが分かった。
「大丈夫だから。俺はあんたが、俺のことも他の誰かのことも両方好きでも、恨んだりしないから。怖がらないで」
 彼女の耳元で穏やかな声を奏で、背中を擦る。少しずつ、ヒナナの気持ちも落ち着いてきて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「敵のはずだった。でも、二度目に出会いで、あの人の瞳の奥に寂しさを見つけてしまったの。誰も手を差し伸べることのない、深い闇。それを見た瞬間、助けてあげたいと思ってしまった……抱いてはいけない思いは、偶然クガネで出会った時、気付かれてしまって、わたしは……」
 あの人に体を許してしまったと、申し訳無さそうに告白した。一瞬、煮え滾るような何かが心の底から顔を出そうとした。しかし俺はそれを押し戻して、ヒナナを抱き寄せる。この人は何も悪くない、ただ優しすぎるだけだと自分に言い聞かせるように。
「ラハ、ごめんね。わたし、あなたが思うような立派な英雄なんかじゃない。相手を救おうとして付け入れられて体を許してしまう、穢れた女だよ……」
 嘲るように彼女は言った。俺はその言葉を否定し、ヒナナの顔を見る。涙に濡れた彼女は、新たな雫を零しながら、俺を見つめていた。
「あんたは世界を救い、たくさんの人々の心に光を灯した英雄だよ。そして俺が尊敬する人だ。穢れてなんかいないし、俺はあんたを愛し続ける」
「……ラハ、後悔しない? 苦しくない?」
「ああ、例え世界があんたの敵になろうとも、俺は傍で守り続ける。第一世界であんたが死を顧みず、救ってくれたように」
「ありがとう……」
 礼の言葉を口にするヒナナの表情は、少しだけ穏やかになっていた。俺は頬を濡らす雫を舐めて、キスをする。触れるだけの口付けだったが、離した瞬間に彼女が心の安寧を求めるように口を小さく開く。俺は応えて、深く舌を絡めた。
 いずれ来る決戦の時、俺もヒナナももしかしたら後悔するかもしれない。深い悲しみを背負うかもしれない。それでも、俺は彼女の手を離さない。ヒナナは大切な、運命の人だから。