軽やかなノックの音がする。続けて、愛しい人の透き通った声が聞こえた。
「ラハ、私だけど」
「ああ、あなたか。どうぞ、入っていいよ」
読んでいた研究書を机に置き、入室を促す。かれこれもう何時間も読み耽っていたのだ。そろそろ休憩が必要だろう。適度に休まないと、彼女やライナに叱られてしまう。心の中で苦笑して、彼女が開くであろう扉に目を向ける。がちゃり、と音が響いて、私よりも背の高い恋人が現れた。
「こんにちは。もしかして何か作業中だった?」
机にある書類やら本やらの山を目にして彼女は言う。後で使うかもと思って、全部机に置きっぱなしにしてしまう為、とても乱雑な状態になっていた。私以外の人間が見たら、確かにこれは仕事中と思うだろう。
「いや、ちょっと研究書を読んでいただけだから、大丈夫だよ。何か用事かい?」
申し訳無さそうな顔をする彼女に優しい笑みを向ける。すると下がっていた眉尻は元に戻り、いつもの穏やかな微笑が口元に浮かんだ。
「もしラハが平気であれば……私と、コルシア島に行かない?」
「コルシア島……構わないけれど、何か問題が……?」
ユールモアという絶対的支配の象徴が崩れた今、あの地域は些か不安定だ。新しい元首が誕生し、それぞれの交易が再開したものの、まだ支えは弱い。手探り状態のあの地で、人々の不安から事件が起きたのではと胸がきゅっとなった。
「あ、いや、悪いことがあったわけじゃないんだ」
緊張した面持ちで自分を見つめる私に対して彼女は首を横に振り、暗い憶測を否定する。
「そうか、良かった……では一体何が」
「前に、タロースを動かす為に心核用の鉱石を探しに行ったじゃない? その時に訪れた、トメラの村って覚えてる?」
彼女の言葉を聞き、記憶を辿る。小さいながら前向きに生きるドワーフ達を思い出して頷いた。
「ああ、もちろんだ」
「あそこに住んでる、とあるドワーフ族の子が、ラハに会いたがってて……どうかな?」
予想外の展開に少し驚く。まさか、相手の目当てが私とは。水晶公として百年生きている中で人々の注目を引くことは何度も今でもあるので慣れてはいるが……今は目の前にいる闇の戦士の方が人気者だと思っていた。
「鉱石探しで行った時は、あっちの都合でラハを見れなかったから、『水晶公がどんな人か見たい』って言ってて」
「そうか……構わないよ。私なんかで良ければ、会いに行こう」
「ありがとう! それじゃ、早速だけど出発しようか」
太陽のように輝かしい笑みを浮かべて私の手を引く。まるで私が物語のヒロインみたいではないかと不服に感じながら、うきうきした様子の英雄とともに移動した。
アマロと船での旅を経て、トメラの村に到着すると、待ってましたとばかりに一人のドワーフ族が彼女に駆け寄ってきた。
「スピネルー! 待ってったっぺー!」
兜のせいであまり表情が見えないドワーフ族だが、声からして喜んでいるようだ。近くまで来ると足を止め、私に視線を向ける。
「も、もも、もしかして、あなたが水晶公だっぺか!?」
どうやら彼女の身長のせいで視界に映っていなかったようだ。初めて私の存在に気付いた、というような様子で彼は言う。やはり身長が低いというのは難点だなと思いながら、その言葉に頷いた。
「ああ、私がクリスタリウムを治める者ーーー水晶公だ」
少しでも統治者らしく、と考え、威厳の有りそうな声色で名乗る。小さな彼はきらきらとした視線をこちらに向け、すごいっぺ……と呟いた。
「スピネルから話を聞いて、強くて優しくてカッコいいって思ったっぺ。世界を救う為にスピネルと一緒に悪い奴と戦った人……どんな人か会いたくなって、無理を承知でお願いしたっぺよ」
訳を語る彼の声は、憧れの英雄のことを話す私に似ていた。自分にはない才能を持つ、手が届かない存在に対する敬愛の思い。熱く胸を焦がす炎を秘め、いかに相手が素晴らしいかを言葉にする。ああ、彼女はこんな気持ちだったのだな、と嬉しさと恥ずかしさを覚えながら、礼を伝えた。
「勿体ない言葉をありがとう。私はただ、彼女の手伝いをしただけだ……ところで、君の名前は?」
「ああっ、すまんっぺ。憧れの人に会えたと思って名乗り忘れてたっぺ。俺はロニット。よろしくっぺ」
ロニットは小さな手を差し出す。屈んで視線を合わせてから、そっとそれを包み込んだ。
「ああ、よろしく。良かったら今度、クリスタリウムにも来るといい。私も民もドワーフ族を歓迎するよ」
「ありがとだっぺ。水晶公は本当に優しい人だっぺなぁ。さすがはスピネルの恋人でもあるっぺ」
うんうんと何度も頷きながら、さらっととんでもないことを言う。今、彼は『恋人』と言ったか? いや、確かに私と彼女はそう言う仲だが……まさか、そんなことまで語ったのか!?
慌てて、彼女を見つめる。視線の先にいる闇の戦士は、両手を合わせて片目を瞑った。
「ごめんごめん。お酒の勢いでぺらぺらと……」
そうか、酒の勢いで……それなら仕方ないとはならない。長年付き合いのあるクリスタリウムの皆にバレるのはまだしも、今日初めて会った相手が恋仲を知っているのは恥ずかしい。尻尾を立たせて耳をぱたぱたさせ、顔はほんのり熱くなった。
「ん? 水晶公、照れてるっぺか? 人の上に立つ偉大な人でも、そういうところがあるっぺな」
楽しそうに笑って、ロニットは手を離した。彼女と私を見つめ、腰に手を当てる。
「二人とも、今日は時間があるっぺ?」
「ああ、船の最終便までなら」
「そしたら一緒に飲もうっぺ。色んな話を聞かせて欲しいっぺよ」
私と彼女の関係がバレている件についてはあとで本人に追及することにして、小さき者の願いを聞くことにした。これからこの世界の未来を担う一員なのだ。伝えられることは出来る限り伝えたい。
「構わないよ。ドワーフ族のことも色々知りたいしね」
「そしたらこっちに来るっぺ。大きな人でも使える椅子と机を用意したんだっぺ」
嬉しそうにロニットは歩き出す。その小さな背を見てから、彼女に視線を向けた。私と目が合うと、申し訳無さそうな顔をする。
「ほんとごめんね、ラハ」
「今は深く問わないが……戻ったら覚悟しておいてね、スピネル」
彼女にしか見えないように不敵に微笑んで、夜の匂いがする台詞をぶつける。彼女はぽんっ、と頬を火照らせ、口をぱくぱくさせた。
普段見せない可愛らしい反応ににこにこしつつ、私はロニットについていった。