爽やかな風が吹く。程良い心地の風は髪を撫ぜ、花弁や葉を空で踊らせた。薄い桃色や藤色の花弁、力強い緑の葉が舞うのは美しく、穏やかな気候であることを示している。しかし、レイクランドのサレン郷近くにある小島で、ゆったりと腰を下ろして読書をしている水晶公の心は、穏やかではなかった。
「まずい……」
原因は、彼の肩にもたれかかっている闇の戦士―――ヒナナだ。二人でピクニックをしにここにやって来たのだが、食後の読書の途中で、寝てしまったのだ。傍目から見れば微笑ましい男女の光景、かもしれないが、水晶公にとっては自分の理性との戦いだった。
彼とヒナナは、恋人同士になったばかりで、まだキスだって数回しかしたことがない。恋愛に関しては、知識はあれど経験はビギナーな水晶公は(それはヒナナもだが)、意図しない恋人の無防備な仕草に、思いが暴走しそうなのを我慢していた。
愛しい彼女が、安心して彼氏の肩にもたれかかる……男として嬉しいシチュエーションだが、真面目な水晶公は変に意識し、体と心が熱くなるのを感じていた。
「……可愛い、が、このままでは彼女を……いや、いくら恋人になったと言えどそれはまだ早い。きちんと段階を踏まなければ」
煩悩を振り払い、水晶公は手に持つ本に集中しようとする。しかし、視線をそちらに向けても内容など入って来なくて、ヒナナの頭が当たっている部分が熱を持った。
読書を諦めて本を置く。少しだけなら、と額に口付けた。触れるだけのキスをして、物足りなくなってしまって、耳にもキスをする。敏感な耳に触れられたからか、ヒナナは短く声を漏らした。擽ったい、とでも言うように身を捩らせる。
その姿が可愛くて、水晶公は余計に胸を熱くさせてしまった。
「ヒナナ……」
そっと、耳元で名前を呼んでみる。ヒナナの体がぴくっと動いて、ゆっくりと目が開いた。ぼんやりしながらも、水晶公の方を見つめる。
「ラハ……?」
まだ半分、夢の中にいると思われる彼女は、不思議そうな表情を浮かべた。
「わたし……あっ!」
ヒナナは自分の状態を把握し、バッと水晶公の体から離れる。恥ずかしそうに頬を朱に染め、俯いた。
「ご、ごめんなさい 途中で寝てしまって、あなたにもたれかかってたなんて……」
初々しく、水晶公と同じくらい真面目なヒナナは、異性に許可なくもたれかかっていた事に関して、はしたないことをしてしまったと思っていた。いくら恋人と言えど、まだ日は浅いのだ。礼節を忘れてはいけない。ヒナナは心中で自分を叱り、水晶公に謝った。
「いや、そんな……謝ることは無い。わたしだって、貴女を見て邪な思いを抱いてしまったのだから……」
「え……?」
彼の意外な言葉に、ヒナナは思わず本人を見る。水晶公は同じように顔を赤くして、頭の耳をぴこぴこと動かしていた。
「邪な、思い?」
「ああ……その……あ、貴女を、だ、抱きたい、という……」
「だ……ええええ!?」
彼の回答にヒナナは驚いた。確かに自分と水晶公は恋人同士になったのだ。いずれ自然の流れでそういう雰囲気にもなるだろう。しかしまだ愛の約束をして数日。その段階がこんな早く迫り来るとは思いもよらなかった。
一方で水晶公は、ヒナナの反応を見て後悔していた。やはりまだ気が早過ぎた。恋人と言えど、物事には順番や雰囲気というものがある。まだ口付けだって慣れていない彼女に対し、性交渉を求めるなんて……浅はか過ぎる。落ち込み、耳と尻尾を萎えさせていると、ヒナナはおずおずと手を伸ばし、頬に触れた。
「ヒナナ……?」
「び、びっくりしちゃっただけだから、そんな、落ち込まないで……? それに……ラハが、その、そういうこと、したいなら……へ、部屋に帰ってなら……いい、から……」
段々と消え入りそうな声になりながら、彼女は水晶公に伝える。意外にも前向きな答えに水晶公は驚き、良いのか?と聞き返した。
「う、うん……ラハのことが好きだから……ならべく、お願いは叶えてあげたいな、って……」
そう言うヒナナの頬と耳は見事に火照り、湯気が出そうな程だった。恥ずかしがりながらも、自分の思いを優先してくれたことに水晶公は喜びを感じる。にこりと微笑んで、頭を撫でた。
「ありがとう、ヒナナ。貴女は本当に優しい人だ。がっついているようで申し訳ないが、それなら貴女の部屋に戻ろうか」
「ふふっ……うん」
水晶公の言葉にヒナナは小さく笑い、頷く。恋に慣れない自分と同じくらい、博識な水晶公も不慣れなのだなと思うと、可愛く思えた。
決まっていた婚約を破棄してまで冒険者になったヒナナに恋を教えてくれた水晶公との物語は、まだ始まったばかり。