ちょうどその時、水晶公は調べ物をしている最中だった。塔の一部となってから随分経つが、人間だった頃の症状が改善されるわけでなく、本の読みすぎで視力が落ちていた彼は、黒縁眼鏡を掛けて分厚い書物に目を通していた。細かい文字が多い本を読む時はいつもこのスタイルだ。たくさんの文字を目で追いながら、得たい情報を探す。調べているページは間違っていないはずなのだが、お目当てのものは見つからない。この本ではなかったか……と思ってそれを机に置こうとした時、自分を見つめる人物の存在に気付いた。
「ヒナナ……!?」
調べ物に集中していて全く気付かなかった。時々、こういうことが起こる。水晶公としては、大切な恋人を無視しているようで申し訳ないのだが、彼女―――英雄であるヒナナは、こちらこそ仕事の邪魔をするようなことをして悪いと謝るのだった。互いに互いを尊重し合う性格だからこうなるのだろう。謙遜も時に厄介だなと感じつつも、優しい彼女に甘えてしまうのが常だ。
「すまない、気付かなく……どうしたんだ? 顔が赤いぞ」
見上げた先にはいつものヒナナがいると思ったが、そこには頬を林檎のような色にした彼女が立っていた。小さく口を開き、じっと水晶公を見つめている。ぽーっとしている彼女に首を傾げ、椅子から立ち上がる。何か特殊な魔法に掛かったのかと思って頬を摘むと、痛みを訴える声が聞こえてきた。
「ラ、ラハ……!?」
「あ、いや……あなたが何かの魔法に掛かってしまったのかと思って、意識の確認を……」
目を潤ませ、困惑する彼女に対し、水晶公は慌てる。大切な人に対してまずいことをしてしまったのではないかと感じ、自分の立場を守ろうと言葉を並べた。彼女に嫌われたらどうしよう、と心に重さを覚える彼に向かって、ヒナナは面映ゆさを見せながら呟いた。
「魔法に掛かった……のは確かかも」
「そうなのか!? 一体誰の?」
新たな脅威となる者が現れたのだろうか。焦る水晶公の頬を突き、彼女は続きを語った。
「……あなたの、よ」
「は……?」
「い、いつもと違うあなたに……見蕩れてたの」
ヒナナの言葉に水晶公は呆然としてしまった。予想外過ぎて、理解と行動が遅れた。彼女は自分に魔法を掛けられたと言う。普段と違う自分に。その意味を完全に飲み込んだ時、水晶公はヒナナと同じくらいに赤くなった。
「そ、そうか……これをしている姿を見せるのは、今日が初めてか……」
昔、共にクリスタルタワーの謎を追っていた時に、既に見せていたと思っていた。しかし実際には異なり、彼女にとって眼鏡を掛けた水晶公は目新しい姿だった。同時に、恋のときめきを呼び起こすものとなり、ヒナナの心をここまで高鳴らせている。
どうしたら良いか困っている彼女を前にして、なんとか冷静さを呼び戻した水晶公は、小さな悪戯を思いついた。
「ヒナナ」
想いを込めて、名前を呼ぶ。彼女はハッとして、水晶公を見た。自分に視線を向けるヒナナに柔らかな笑みを見せ、ゆっくりと眼鏡を外す。それと同時に顔を近付け、彼女の顎を空いている手で優しく掴んだ。離さないと言わんばかりに目線を合わせて、瞼を閉じて口付ける。啄むように何度か唇を重ねて、彼女との戯れを楽しんだ。
接吻から解放すると、ヒナナは少し蕩けた瞳で水晶公を見つめる。小さな悪戯は予想以上の効果を発揮したようだった。
「ラハ……もう少し、欲しい……」
それは同時に、彼の気持ちにも影響する。
「これ以上したら、歯止めが効かなくなるかもしれないけれど、構わないかい?」
水晶公は、自分の中で湧き上がる欲望の存在に気付いて、ヒナナに確認をした。彼女はこくりと頷き、その腕を水晶公の背に回す。闇の戦士、と呼ばれるには華奢な体が彼にぴたりとくっつき、その瞳は水晶公を見つめた。
「大好きなあなたとなら、大丈夫」
「そうか、なら―――今宵はあなたと、めくるめく夜を過ごそう」
恋愛物の歌劇のような台詞を口にして、水晶公は再度ヒナナに口付ける。直後、衣擦れの音がして、彼女の衣服がはらりと床に落ちた。