刃が脳天を貫いた時、痛みよりも安堵感が彼にはあった。これで「苦しい」のも終わる。「にいちゃん」のところへ行ける、と。一瞬にして視界は暗くなり、体は地に倒れる。機能は次々と停止し、彼の意識も暗い闇の中へ消えていった。
にいちゃん、僕ね、戦うことは嫌いじゃないよ。体を動かして、楽しい。
でもね、にいちゃんがけがしたり、苦しい気持ちになるのはいやだ。
意識を取り戻した時、彼は真っ暗な世界に一人ぼっちだった。周りには何もない、誰もいない。兄のところに行けると思っていたが、そこには自分ひとりだった。
途端に、悲壮感と孤独感が彼を支配する。胸が苦しくなって、涙がぽろぽろと零れた。
「にいちゃん……! にいちゃん、どこにいるの……? 俺をひとりにしないで……」
泣きながら、助けを求める。辛くて辛くてこの現実から逃げたくなって、泣き叫びながら暴れた。まるでそれは、思い通りにいかない時の幼い子どものようで、とても人間味に溢れた行動だった。暴れて地面を叩き、次第に至る所に掠り傷を増やしていく。痛みを感じたが、それよりも兄がいない現実の方が嫌だった。
「にいちゃん! にいちゃん! にいちゃん! にいちゃん!」
純粋で切ない彼の叫びは空虚に溢れ、行く先もなく消えていく。機械が人間に近付くことはこれほどにも苦しい罪なのかと感じさせるようだった。
「にいちゃん……助けて……! 俺はにいちゃんがいない世界なんて、嫌だよ……」
孤独が彼の胸を引き裂く寸前、温かな何かが後ろから包み込んだ。
「イヴ」
彼を呼ぶ声が耳に届く。その声を聞いた瞬間、安堵と喜びが体中に広がった。
「にい、ちゃん……?」
「泣くな、イヴ。お前は一人じゃない、大丈夫だよ」
「にいちゃん……!」
彼は腕の中で振り返り、兄に抱きつく。孤独から救ってくれた兄は、穏やかな表情をしていた。
「イヴ……これからはずっと一緒だ」
兄は彼の髪を優しく撫でる。それは彼の心を落ち着かせ、先程の悲しみや苦しみが嘘のように感じられた。
「にいちゃん、ありがとう」
僕、にいちゃんと静かな場所で暮らせればそれでいいんだ。
にいちゃんと本を読んで、にいちゃんと遊んで、にいちゃんと笑って
ただそれだけでいいんだよ
たった二人だけの空間で、彼は兄の優しさを独占する。以前とは違い、兄は彼のことを見てくれていた。兄の目には、しっかりと彼が映っている。それが彼は嬉しかった。今までは彼の一方通行だったからだ。
頭を撫でてくれる兄を上目遣いで見つめ、彼は問うた。
「ねぇ、にいちゃん。これからどうするの? ずっと真っ暗なここにいるの?」
問いかける彼の瞳には、不安の色が見えていた。
兄は首を横に振る。
「いや、『彼女』の元に向かう。お前が望む、静かで穏やかな場所だよ」
「かのじょ?」
一瞬、彼の胸にざわつきが起こった。兄が自分以外の、しかも異性の存在を話したからだ。それが『嫉妬』だということを彼は理解していないようだった。
「私達、機械生命体を管理する『意思』のようなものだ。冷たいところもあるが、こちらの味方だ」
「機械生命体を管理する意思……? 俺達の母ちゃんみたいな感じ?」
「母親……ふふっ、そうだな、母かもしれないな」
兄は彼の穢れない発言に小さく笑った。よく分からないが、兄が笑ってくれたことで彼は幸せな気持ちになった。
「じゃあ、その母ちゃんに会いに行こう。ここ、俺、嫌いだ」
彼は兄の服をぎゅっと掴む。幼子が母親にそうするようで、兄の胸は温かくなった。
「ああ、そうだな、行こう、イヴ」
二人は手と手を絡ませ、黒の空間を歩いていく。
彼の胸中に、不安も孤独ももうない。そこにあるのは、喜びと安心感だ。もうこれからは、兄と離れることはない。ずっとずっと、いつでも一緒だ。彼は、兄とともにこの世に生まれて良かったと思い、自分達を生み出してくれた他の機械生命体達に感謝した。
ぱたん、と本を閉じる。その音に兄は顔を上げ、どうした?と問うた。
「んー、ちょっと疲れたから散歩してくる」
彼は不快指数80%くらいの表情で答えた。再会以来、彼に優しい兄は、あとでちゃんと続きを読んだぞ、とだけ言って、散歩を許可した。前だったら読み終えるまで許さなかったのに。そういうところも変わったな、と思いながら、彼は兄の言葉に頷いて、部屋の外に出た。
彼らが今いるのは、『塔』と呼ばれる場所で、兄が『機械生命体を管理する意思』と呼んでいた『N2』が作り上げた施設だ。大昔、ヒトが住む村にあったものを模したらしく、緻密な作りとなっている。内部は白を基調としたどこか冷たい作りだが、ヒトに関する本がたくさん所蔵されていたり、今まで機械生命体達が作り上げた技術が集結していたり、彼らにとって過ごしやすい場所だった。
彼は白い廊下を歩き、擦れ違う他の機械生命体と挨拶を交わす。みんな彼と関わることを喜び、彼自身もこうした交流を楽しんでいた。何体かの機械生命体と出会った後、彼はある部屋に辿り着く。扉の開閉ボタンを押して中に入ると、そこにはN2がいた。
「イヴか、どうした?」
彼女の口から、少女とは思えない声色が発せられる。まるで年老いた男のような声だ。しかし彼はそれを気にせず、彼女に近付いた。
「……俺、時々不安になるんだ。また、にいちゃんがどっか行っちゃうじゃないかって」
「ほぅ」
「もう、あの時ほど人間に興味がないみたいだから、大丈夫だとは思うんだけどさ。まだ、夢に見ることがあるんだ……にいちゃんが、×××時のこと」
彼は辛く、切ない表情で吐露する。N2は興味深げに笑みを浮かべ、やはりお前たちは面白いな、と呟いた。
「不安に思うというのは、対象を信じられていないから起こる現象らしい。お前は、兄のことを信じているのだろう?」
「当たり前だろ」
「なら、それでいい。兄を信じて過ごせばいい。そうすれば、不安というものも消えるだろう」
「そうなのか?」
「ああ、ヒトはそうやって苦難を乗り越えたそうだ」
彼は半信半疑だった。機械生命体の母のような存在である彼女を信頼していないわけではなかったが、兄を信じるだけで大丈夫なのだろうかと。けれど、変に兄を刺激すれば良くないことがまた起きるかもしれない。彼は自分の中で噛み砕き、N2の言葉に頷いた。
「わかった。にいちゃんを信じる。それとさ……」
彼はそこで口籠る。N2は訝しむような視線を送った。
「なんだ?」
「……外に遊びにはやっぱり、遊びにいけない?」
子どもが恐る恐る親にお願いする時の表情で、彼は話す。N2は首を横に振り、今は無理だと答えた。
「そっか……」
「その代わり、塔内に体を動かせる場所を作ってやろう。他の機械生命体達も体力を持て余しているようだからな」
一度は落ち込みかけた彼だったが、代替案を示され、明るい感情が浮かび上がる。彼はN2に礼を言い、兄の元に戻ろうとした。と、N2が呼び止める。彼は不思議そうに振り返った。
「なんだ?」
「お前は、兄のことが好きなのか?」
「うん。大好きだよ」
「それは、恋愛的な意味で?」
「んー、よく分かんないけれど、そうなのかも。にいちゃんがいなくなった時、悲しくて辛くて、世界が大っ嫌いだった。俺にはにいちゃんさえいればいいって、壊しまくってた」
「そうか……」
彼女は彼の答えを聞き、何度か頷いてから、戻っていいぞと言った。
「うん、じゃあ、またな」
彼はN2の真意を分からぬまま、兄の元に戻る。当のN2は彼らの進化を興味深く面白いと感じた。自分の考えていた機械生命体とは全く異なる道を彼らは歩いている。
「もしかしたら……彼らが『始まり』になるかもしれないな」
部屋に戻った彼は、兄の隣に座って本の続きを読んだ。散歩は楽しかったか?と兄に聞かれ、みんなと話せて面白かったと答えた。N2に相談しにいったことは伏せておいた。
暫くすると、彼は兄の肩に寄り掛かる。ちょこんと頭を乗せて、甘えるように「にいちゃん」と呼んだ。
「どうした?」
「本読むのつまんなくなっちゃった。にいちゃんと遊びたい」
「……そうか」
兄は本を閉じ、弟を見る。その表情は、彼を『恋人』として愛おしむものだった。
「じゃあ、少し遊ぼうか」
そう言って兄は、弟を柔らかく抱き寄せ、顎に手を添える。赤い瞳を見つめたまま、そっと唇を重ねた。
合わさった部分はほんのり熱を持ち、胸がきゅっと締め付けられる。
彼は高鳴る鼓動を感じながら、「もう一回」と強請った。
「一回だけでなく、何度でもしてあげるよ、イヴ」
たくさんの愛情を注ぐように、兄は弟に口付ける。『大好き』という言葉を交わすように、そのやり取りは長く続いた。